池=池泉庭園,枯=枯山水庭園,磐=磐座
庭園名称 | 作庭年代 | 形状種別 | 所在地 | 備 考 |
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鞍馬寺奥の院 | 上古 | 磐座 | 左京区 鞍馬本町 |
庭園になる以前の原初形態の一つ。石を神々に見立てて、神聖な場とした所。 常時公開 |
大覚寺大沢池 | 平安 | 池 | 右京区 嵯峨大沢町 |
嵯峨天皇の仙宮。広大な州浜形池泉庭園。近年この池泉奥の名古曽の滝が発掘され、そこから池泉に注ぐ遣水の存在もあきらかになった。池の中にある庭湖石にも注目。 常時公開 |
東本願寺渉成園 | 平安 | 池 | 下京区 間之町通り 正面玉水町 |
江戸初期に石川丈山が一部改作し、明治初年に鉄道敷設に際し庭石を搬出した。鶴亀二島や蓬莱島を配している。重森三玲の見解では平安記の作庭としていたが、近年の研究によって江戸期の作庭説が有力である。しかしながら庭園全体は大変美しい。 常時公開 |
勧修寺 | 平安 | 池 | 山科区 勧修寺 仁王堂町 |
蓬莱神仙の多島式で地割りが大変よいが、近年枯湾を破壊し、護岸も昭和的に改悪されたのが惜しまれる。 常時公開。 |
平等院鳳凰堂 | 平安 | 池 | 京都府 宇治市 |
近年発掘調査が進み様々なことが発見された。その発掘調査にもとずいて近年改修された。鳳凰堂(正式には阿弥陀堂)周囲を、平安期庭園の特徴である洲浜形式に修復され、中島とそこに架かる平・反橋を復元し、素晴らしい状態が蘇った。まさに大海に浮かぶ浄土の世界を体現することができるようになったことは喜ばしい。
常時公開。 |
法金剛院 | 平安 | 池 | 右京区 花園町 |
昭和に森蘊(もりおさむ)氏によって発掘復元改修された平安時代の庭園。大変豪華な滝石組が見所。 常時公開。 |
浄瑠璃寺 | 平安 | 池 | 相楽郡 加茂町 |
地割のみを残しているが、優美な雰囲気は伝わってくる。九体堂と呼ばれる美しい建物内に安置されている仏像、鎌倉時代の石燈籠など、全てが美しい。 常時公開。 |
積翠園(竹田病院) | 平安 | 池 | 東山区 東大路 渋谷道南 |
現在の竹田病院(元専売病院)の庭園。近年江戸時代作庭説が出ている。細部の手法や施工方法などは平安時代作庭説もとれるが、まだまだ研究の余地がある。近年整備改修されたが、護岸などが、全くもってお粗末な改修となってしまったのが残念である。夜泊石組が見所。 見学可 |
西芳寺 | 鎌倉 | 枯・池 | 西京区 松尾上ヶ谷町 |
一般には夢窓国師作庭と言われているが、庭園の細部と、文献等を調べていくと,鎌倉時代の作庭ではないかと思われる。特に上部の枯滝石組は絶品。 申し込みにて拝観可能。(写経含めて\3,000)(写真参照) |
鹿苑寺 | 鎌倉 | 池 | 北区 金閣寺町 |
金箔を貼った楼閣建築があるために、一般には金閣寺の相性で親しまれている。創建当初の原形がよく保存されている一流の名園。とかく建物だけ集中しがちであるが、庭園と一体となっているからこそ、初めて金閣が美しくなる事に気付くべきである。建物と外部空間とが織りなす一体感を味わって欲しい。 常時公開。 |
天龍寺 | 鎌倉 | 池 | 右京区 嵯峨天龍寺 芒ノ馬場町 |
自然石を使った橋は、日本庭園の橋石組として最古の例であり素晴らしい。またその背後にある滝石組も、龍門瀑の形式となっており、その構成は大変傑出したものとなっている。天龍寺庭園は、瀧石組、橋石組、またその近辺の岩島構成などが最も意匠的にも技術的にも傑出した所で最大の見所である。双眼鏡必須。 常時公開。 |
南禅院 | 鎌倉 | 池 | 左京区 南禅寺 福地町 |
公安年中亀山上皇がこの地の風光明媚を愛し、離宮造営。園池は梵竺仙禅師の作庭という枯滝三尊石、蓬莱石が保存されている。 常時公開。 |
知恩院 | 鎌倉 | 池 | 東山区 林下町 |
足利尊氏が好んでいた常在光寺の池泉を、江戸初期方丈再建後寛文三年,山本道白が改造した。南部の池の中島及び石組には、築造当初の匂いが濃い。 常時公開 |
酬恩庵 一休禅師廟前庭園 | 室町 | 枯 | 京都府綴喜郡 田辺町薪 |
一休禅師が大応国師創建の妙勝寺を再興、恩師に報いる意を庵名とし、庭を作った。須弥山式立石とサツキの刈り込みの珍重すべき上品な平庭枯山水である。 廟前、虎丘の庭(非公開) 方丈庭園は常時公開 |
慈照寺 | 室町 | 池 | 左京区 銀閣寺町 |
足利義政が文明14年より数年にわたり造営,善阿弥など当代一流人の作庭、東求堂内同仁斎は、室町書院の代表である。その前庭は当初の作庭が保存されているが、元和元年、宮城豊盛が大半を改修した。銀沙灘、向月台の砂盛は新鮮な美の極致である。 常時公開。(写真参照) |
龍安寺 | 室町 | 枯 | 右京区 龍安寺 御陵ノ下町 |
応仁の乱に焼亡した細川勝元の山荘を、明応八年に、その一子政元が義天禅師と協力再興した。その時作庭したと思われる。方丈の前庭を初めて庭園に開発し、枯山水を確立した創意、七五三配石技術の妙、大仙院と対照的に石庭の最高峰と称えられる。 常時公開。 |
芬陀院 | 室町 | 枯 | 東山区 本町15丁目 |
前方が高い苔地に、鶴亀石組のみを築く。亀島には雪舟禅師の手法を残す。比較的小石ながら力強く、鶴島は昭和初年推定復元である。書院東庭の鶴亀枯山水は、昭和の新作で、重森三玲の設計による作庭である。 常時公開。 |
大徳寺大仙院 | 室町 | 枯 | 北区 紫野大徳寺町 |
開山の古岳禅師の作庭で、北宋山水画的な庭園である。遠山、枯滝、石橋、渓谷は大流となり、船石を浮かべ、多数の阿波産の青石を用い、名石を揃えながらも、それだけに頼らず、造形的、技術的にも第一級の枯山水庭園である。 常時公開 (写真撮影禁止)(写真参照) |
大徳寺龍源院 | 室町 | 枯 | 北区 紫野大徳寺町 |
永正年中、畠山、大友、大内の三大名が協力して開創、その当時の開山である東渓禅師が方丈の裏の細長い地に作庭した。傾斜する石を中央にして小石を左右に平行させて立てた、一種の三尊式の石組であるが、須弥山式の石組と見てよい。80坪ほどの敷地であるが、全庭苔むした庭で、簡素な構成が特色である。また昭和に作庭された「東滴壺」も大変素晴らしい。作者は重森三玲と共に戦前の全国庭園実測調査を手伝った鍋島岳生氏。
常時公開。(写真参照) |
大徳寺真珠庵 | 室町 | 枯 | 北区 紫野大徳寺町 |
永享年中に一休禅師の創建であるが、庭は一休禅師に帰依して来寺していた、連歌師の宗長の作と思われる。この種の七五三の石組としては技術的に最高である。金森宗和好みの庭玉軒はまた茶席として名席である。 非公開 |
妙心寺退蔵院 | 室町 | 枯 | 右京区 花園妙心寺町 |
大永年中、現地へ移建の頃の作庭で、築山に枯滝、枯池に亀島、これへ石橋をかけ、築山の裾に蓬莱石を据えている。全景は狩野派水墨画のごとく、元信作と伝えている。また昭和に活躍した中根金作氏の作庭した庭園もある。 常時公開。 |
妙心寺霊雲院 | 室町 | 枯 | 右京区 花園妙心寺町 |
天文12年、書院完成のころ相国寺庭庵の作と考えられる。呂律の庭といい、蓬莱山水のきわめて小さな庭であるが、技術は傑出している。 非公開。 |
妙心寺玉鳳院 | 桃山 | 枯 | 右京区 花園妙心寺町 |
花園法皇御塔所。多数の石組があり、築山部には蓬莱石、枯滝を組む永禄初年の手法を見ることが出来、豪華である。 非公開 |
真如院 | 桃山 | 枯 | 下京区 猪熊通 五条上ル |
永禄11年の織田信長、足利義昭を迎えたときの作庭。枯滝、枯流、これに魚鱗形の小板状の小石で小波を再現、栗石式のもっとも発達したものである。戦後に取り壊したが、もとの材料で重森三玲の指導によって、現在位置に復元した。 非公開 |
本法寺 | 桃山 | 枯 | 上京区 小川通 寺ノ打上ル |
天正15年、豊臣秀吉が日通上人に命じて再興した。光悦三巴の庭という。枯滝を組み、白い縞目の水落石によって、水の落ちる表現を出している。別に本堂前に幡方の蓮池を作り、さらにその横に円形の切石を二つに割ったものを用いてあって、"日"の文字とされるので、蓮池とともに日蓮を抽象したものかとも考えられる。 常時公開 |
三宝院 | 桃山 | 池 | 伏見区 醍醐東大路町 |
慶長3年、豊公醍醐の花見に際し、金剛輪院の庭を、急遽大池泉庭園に改修、それ以来二十数年経営、現今の庭園となった。東南に三段の滝、池中に鶴亀両島、石組は豪華である。南に須弥山式の集団石組、土、板、石の三種類の橋の変化もおもしろく、藤戸石をはじめ名石奇石を配している。作庭は賢庭を中心としたことを演准后日記に詳述している。 常時公開 (庭園内写真撮影禁止) |
勧寺院 | 桃山 | 枯 | 下京区 猪熊通 五条下ル |
桃山期から流行したといわれる玉澗流の橋石組が美しい庭園。 非公開。 |
円徳院 | 桃山 | 池(涸) | 東山区 高台寺 下河原町 |
桃山期らしい豪華絢爛な庭園。京都の庭園の中でも一級の石組構成が美しい。桃山期から江戸期にかけて活躍した賢庭の作といわれている。近年、茂った樹木が整備され、往時の大変美しい姿が甦った必見の庭。檜垣の手水鉢も見逃さないように。 常時公開 |
桂離宮 | 桃山 | 池 | 西京区 桂御園町町 |
小堀遠州作といわれているが、正確には作者は不明。全庭、茶の露地的な雰囲気を漂わせながら、どこを見ても美しい構成は、第一級の池泉庭園といえる。各飛石の打ち方、燈籠や手水鉢の種類など、見所沢山であるために、複数回行って見ることをお薦めする。 申し込みにて拝観可能。(写真参照) |
西本願寺対面所 | 桃山 | 枯 | 下京区 堀川通 七条上ル |
桃山期から江戸初期にかけての作庭。桃山期らしい豪華絢爛な雰囲気が出ている。鶴・亀の構成、庭園に向かって中央から左側付近奥部にある枯滝石組など見所沢山。またこの時代から使われ出した、美しい反りを持った反り石橋にも注目。 月一回公開 |
表千家露地 | 桃山 | 茶 | 上京区 小川通 寺ノ打上ル |
京都三千家の代表的な茶庭。まさに市中の山居を思わせる外部空間構成は絶品。 申し込み許可制 |
二条城旧二の丸 | 桃山 | 池 | 中京区 二条通り 堀川西入 |
小堀遠州が改造したことで有名。遠州が直接手を下した庭園として、現存している数少ない事例である。豪快且つ繊細さも兼ね備えた、どこから見ても美しい庭園である。常時公開。 |
南禅寺金地院 | 江初 | 枯 | 左京区 南禅寺福地町 |
世に多数ある小堀遠州作庭説の中でも、正真正銘の遠州作庭の庭。江戸初期の典型的な地割で、方丈手前側を大きく無の空間として空け、その背後の左右に鶴亀両島を配す。さらに背後の斜面を蓬莱山として見立てている。また鶴亀両島の間にある大きな礼拝石は、その斜面の上部には東照宮があることから設けられた。 常時公開。 (写真参照) |
仙洞御所 | 江初 | 池 | 上京区 御苑内 |
最初の作庭は小堀遠州の手によるものであったが、その後幾度となく改造されていき、現在では遠州作の片鱗はほとんど残っていない。東側出島付近にある、切石による直線構成の護岸が遠州作の唯一残っているところではないかといわれている。玉石による洲浜は遠州作ではないが大変美しい。 申し込みにて拝観可能。 |
大徳寺本坊 | 江初 | 枯 | 北区 大徳寺紫野町 |
江戸初期の作庭で、庭園左側奥部に省略手法の枯滝石組を構成し、抽象的なたたずまいを見せる。江戸初期らしく、手前側を大きく白砂の部分として空け、奥部に植栽、石組を構成している。東側には、十六羅漢の庭園、あるいは七五三石組ともいわれる、ユニークな構成の石組が見られる。また苑は以後にある二重の生垣にも注目したい。 非公開 |
京都御所 | 江初 | 池、流 | 上京区 御苑内 |
作成中。 申し込みにて拝観可能。 |
裏千家露地 | 江初 | 茶 | 上京区 小川通寺ノ打上ル |
作成中。 非公開 |
正伝寺 | 江初 | 枯 | 北区 西加茂 鎮守庵町 |
刈込だけによる七五三構成とした珍しい庭園。日本に数多くの古庭園が存在するが、このような刈込のみによる構成は、この正伝寺だけである。背後の比叡山を霊峰として崇めるようにできている点も見逃せない。 常時公開。 |
大徳寺孤蓬庵 | 江初 | 枯,茶 | 北区 紫野大徳寺町 |
遠州の晩年、隠居の場として自らが建物から庭園に至るまで設計した。名席忘筌はあまりにも有名。また見逃されがちであるが、正面涸堀に架かる石橋を渡り、門を潜った後に続く直線構成の延段の美しさは絶品。また遠州が好んだ直線構成も取り入れられ、寸分の隙もなく、行き届いたデザインを楽しむことができる。かといって堅苦しさがないのは、やはり名人ならではの境地といえるであろう。 非公開 (写真参照) |
酬恩庵本坊 | 江初 | 枯 | 綴喜郡 田辺町薪 芒ノ馬場町 |
大徳寺大仙院庭園と大徳寺本坊庭園の枯滝石組構成を持った豪快且つ繊細な庭園。南庭は植栽構成のみで、しかも江戸初期の常套手段である手前を白砂の空間として空けた手法。その後東側は十六羅漢を表した石組で、大徳寺本坊庭園の影響を見て取れる。北側には枯滝構成を持った枯山水庭園が広がり、変化や空間構成の妙を楽しむことができる。またこの酬恩庵は、傾斜を伴った全体の敷地構成を巧みに利用した作りとなっており、その辺りの構成も必見。 常時公開(2003/10から写真撮影可。ただし三脚使用不可) |
修学院離宮 | 江初 | 池 | 左京区 修学院 |
作成中。 申し込みにて拝観可能。 |
曼殊院 | 江初 | 枯 | 左京区 一条寺 竹ノ内町 |
作成中。 常時公開。 |
西本願寺滴翠園 | 江初 明治改修 |
池 | 下京区 堀川七条上ル |
作成中。 非公開 |
藪内家露地 | 江初 | 茶 | 下京区 西桐院正面下ル |
作成中。 非公開 |
智積院 | 江初 | 池 | 東山区 東大路七条 |
作成中。 常時公開。 |
西翁院露地 | 江初 | 茶 | 左京区 黒谷町 |
作成中。 非公開。 |
仁和寺 | 江初 | 池 | 右京区 御室大内町 |
作成中。 常時公開。 |
円通寺 | 江初 | 枯 | 左京区 西幡枝 |
作成中。 常時公開(2002/10から写真撮影可) |
南禅寺本坊 | 江初 | 枯 | 左京区 南禅寺福地町 |
作成中。常時公開。(写真参照) |
東福寺普門院 | 江初 | 池 | 東山区 本町15丁目 |
作成中。 常時公開。 |
芳春院 | 江中 | 池 | 北区 紫野大徳寺町 |
作成中。 非公開 |
官休庵露地 | 江中 | 茶 | 上京区 武者小路小川東入 |
作成中。 非公開(写真参照) |
等持院書院 | 江中 | 池 | 北区 等持院北町 |
作成中。 常時公開。(写真参照) |
東海庵 | 江末 | 枯 | 右京区 花園妙心寺町 |
作成中。 非公開 |
大徳寺高桐院 | 江末 | 枯 | 北区 紫野大徳寺町 |
作成中。 常時公開。 |
三千院聚碧園 | 江末 | 池 | 左京区 大原来迎院町 |
作成中。 常時公開。 |
寂光院 | 江末 | 池 | 左京区 大原草生 |
作成中。 常時公開。 |
無鄰庵 | 明治 | 流 | 左京区 南禅寺草川町 |
旧山県有朋の別邸。山県有朋指導のもと、第七代小川治兵衛が施工に携わる。現在は京都市が監理している。傾斜地を巧みに利用した、なだらかな流れの庭で、植治の技量の高さを表す庭園として名高い。 常時公開。 |
対龍山荘 | 明治 | 池 | 左京区 南禅寺福地町 |
第七代小川治兵衛作。南禅寺界隈にある小川治兵衛一連の作。これも水量の豊富なこの界隈の特色を生かした流れのある庭園で、治兵衛翁の卓越した技量の高さを知ることが出来る。 非公開(写真参照) |
円山公園 | 明治 | 池 | 東山区 祇園丸山町 |
小川治兵衛作。作成中。 常時公開。 |
平安神宮西神苑 | 明治 | 池 | 左京区 岡崎公園 |
小川治兵衛作。作成中。 常時公開。 |
野村氏碧雲荘 | 大正 | 池 | 左京区 南禅寺 下河原町 |
小川治兵衛作。作成中。 非公開 |
細川別邸 | 大正 | 流 | 左京区 南禅寺 下河原町 |
小川治兵衛作。作成中。 非公開 |
東福寺本坊 | 昭和 | 枯 | 東山区 本町15丁目 |
重森三玲作。戦前の伝統的な作風意匠が蔓延していたときに放たれた意欲的な作品。方丈を取り囲む東西南北全てに、三玲の日本庭園に対する真摯な創作意匠を見て取ることが出来る。作庭されてからすでに約60年がたつが、いま現在においても、依然鮮烈な光を放っている庭園である。 常時公開。(写真参照) |
東福寺光明院 | 昭和 | 枯 | 東山区 本町15丁目 |
重森三玲作。作成中。 常時公開。 |
大徳寺瑞峯院 | 昭和 | 枯 | 北区 紫野大徳寺町 |
山水形式の庭園は昭和37年(1962)に重森三玲が作庭。茶室に面した北庭は、創建者の大友宗麟がキリシタンであったことから、日本庭園史上初めて「十字架」を題材にして設計された。南庭は碧巌録の独座大雄峯をテーマとした、禅と大自然を融合したもの。
常時公開。(写真参照) |
東福寺龍吟庵 | 昭和 | 枯 | 東山区 本町15丁目 |
重森三玲作。大明国師の塔所で、日本最古の方丈建築の前庭。また公開された時も入れないが、北野政所がしばらくの間身を寄せていた桃山期の庫裡も大変美しい。そんな歴史的建造物の部分に三つの庭がある。一つは方丈南庭で、古式にのっとった白砂だけの空間。ここに西側の庭と隔てる雷紋様の竹垣が当初からあるが、現在のデザインはオリジナルとは異なる。西側の庭園は、石組によって表現された龍が黒雲から飛び出し、反時計回りに円を描くようにして表現されている。方丈と庫裡の間にある壺庭は、大明国師の幼少の頃の逸話を題材にして石組されている。 非公開(11月の一ヶ月間だけ公開)(写真参照) |
東福寺霊雲院 | 昭和 | 枯 | 東山区 本町15丁目 |
重森三玲作。九山八海石(盆石)を白砂の中心に据えて、背後に枯滝などがある江戸期に作られたといわれる庭園を三玲が修復。これは三玲修復庭園の悪い癖が出ていて、修復というよりも三玲作の庭園と言った方がよい。また龍門瀑形式の滝を組んだ三玲作の庭園もあるが、こちらの方がのびのびと自身の特徴を出した作風であり良いのだが、近年、どうしようもない燈籠や石造品をおいてあるために景観が大変悪い。 常時公開。 |
泉涌寺本坊 | 昭和 | 枯 | 東山区 泉山 |
重森三玲作。作成中。 非公開 |
松尾大社 | 昭和 | 磐,流,池,枯 | 西京区 嵐山宮町3 |
重森三玲の絶作。磐座、曲水の庭を設計指導して病に倒れた。その後を重森完途が引き継ぎ、曲水の庭を完成させる。そして1997年に、その曲水の庭に面した部分に枯山水の庭園をチサヲが作庭し、ここに三代の庭園が完成する。どの庭も非常に抽象的であり、見るものを引きつけてやまない。昨年(1998)より、期間限定で曲水の庭の夜間拝観も行われている。 常時公開。 |
三宅氏庭園 | 平成 | 枯 | 亀岡市 大井町並河 |
平成3年完成。重森完途・千青設計監理。京都亀岡市のJR並河駅より徒歩10分ほどの、古い住宅が建ち並ぶ閑静なところにある。以前は、建物も江戸末期から明治期にかけての建物があったが、残念ながら設計依頼を受けた時点で、すでに取り壊された後であった。裏庭の一部に明治期の庭が残っている。約130坪ほどの敷地で、石組中心とした枯山水庭園である。慶長期の石組のような豪快でありながら動きのある巧みな石組で、意匠,技術共に非常に優れた庭園である。 非公開(要相談) |