滝石組




滝石組について




滝石組は、実際に水を落とす滝と、石だけによって水がさも落ちているように表現された枯滝石組の二種類がある。水を落とす滝石組として古い形態を良く保っているものとしては、京都天龍寺にある滝石組(現在涸れているが、大雨などが降って実際に水が落ちる様をよく観察していると、素晴らしい滝石組であることが納得できる。)や鹿苑寺の滝石組などがある。西芳寺上部枯滝石組などは枯滝石組であるが、この石組も実際に水を落とせる構造になっている。今から約40年ほど前の昭和30年代はじめに、私の父(完途)が、西芳寺庭園の実測と撮影で毎日この地に訪れていたある時、大雨が降って、この滝石組の上部から流れてくる水を見て、実に巧みに水を落とすように計算されていることにいたく感心したという話を、私は父の生前に聞いたことがある。つまり、実際に水を落としても綺麗に流れ落ちる滝石組は、水を流さなくてもあたかも水が流れているかの如く見えてくるのである。しかしながら、この様に書くと非常に簡単そうであるが、どちらでも見られるように組むことは容易なことではなく、先人の石に対する感覚の鋭さを、改めて知ることになる。同様の枯滝としては、島根県益田市にある医光寺庭園、粉川寺などがある。またこの西芳寺とは全く違う形態の枯滝としては、大徳寺大仙院、本法寺などがある。先に書いた天龍寺と鹿苑寺の滝石組は、いわゆる竜門式(用語辞典参照)の滝石組で、鯉魚石を用い、これを下方に配することによって、鯉が滝を登って竜と化す、という表現がなされている。一般的な滝石組は、水落石を据えることによって、水の流れを抑制し、水落の面の形に応じて不動石、守護石などの脇石を据える。また滝の下部には波分石、水分石、水受石などを据えるのが一般的であるが、これらの手法の中で、水分石などは室町期以後のことである。また水の落とし方には、布落、離れ落、糸落、段落、流れ落、分かれ落などがある。



・鎌倉時代 ・室町時代・桃山時代・江戸初期・江戸中末期

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鎌倉時代の滝石組



天龍寺天龍寺(鎌倉時代)

京都市右京区。臨済宗天龍寺派本山。天龍寺の滝石組は、いわゆる竜門式の滝石組。中国黄河の上流にある滝を竜門瀑といい、これを模したものを用いた。また中国の伝説による三級岩と呼ばれる三段の滝を、下流から上ってきた鯉が登ろうとするが、なかなか登れない。その不可能な滝を、もし万が一登ることが出来れば竜と化し昇天する。この伝説を竜門瀑と共に様式化し、竜門の滝とも称せられる。鯉魚石を用い、これを下方に配する ことによって、鯉が滝を登って竜と化すという表現がなされている。下の鹿苑寺と共に、代表的な竜門式の滝石組である。

鹿苑寺鹿苑寺(鎌倉時代)

京都市北区。臨済宗相国寺派。鹿苑寺の滝石組は、いわゆる竜門式の滝石組。中国黄河の上流にある滝を竜門瀑といい、これを模したものを用いた。また中国の伝説による三級岩と呼ばれる三段の滝を、下流から上ってきた鯉が登ろうとするが、なかなか登れない。その不可能な滝を、もし万が一登ることが出来れば竜と化し昇天する。この伝説を竜門瀑と共に様式化し、竜門の滝とも称せられる。鯉魚石を用い、これを下方に配する ことによって、鯉が滝を登って竜と化すという表現がなされている。上の天龍寺と共に、代表的な竜門式の滝石組である。

西芳寺西芳寺(鎌倉時代)

京都市右京区。臨済宗隠山西芳寺。西芳寺上部枯滝石組は枯滝石組であるが、この石組は実際に水を落とせる構造になっている。今から約40年ほど前の昭和30年代はじめに、私の父(完途)が、西芳寺庭園の実測と撮影で毎日この地に訪れていたある時、大雨が降って、この滝石組の上部から流れてくる水を見て、実に巧みに水を落とすように計算されていることにいたく感心したという話を、私は父の生前に聞いたことがある。つまり、実際に水を落としても綺麗に流れ落ちる滝石組は、水を流さなくてもあたかも水が流れているかの如く見えてくるのである。しかしながら、この様に書くと非常に簡単そうであるが、どちらでも見られるように組むことは容易なことではなく、先人の石に対する感覚の鋭さを、改めて知ることになる。いまだにこの枯滝石組の前に立って無心になって見ていると、今にも水が勢い良く流れ落ちてくる錯覚に陥るほど、言葉では表現しようがないほど、巧みに組まれている。同様の枯滝としては、島根県益田市にある医光寺庭園、粉川寺などがある。




室町時代の滝石組



大徳寺大仙院大徳寺大仙院(室町時代)

京都市紫野。臨済宗大徳寺塔頭。上記三つの滝石組とは、形態が根本的に異なるもので、水を抽象的に表現した滝石組である。この石組も細部までじっくりと見てみると、今でも一級の石組であり、現代作家においても、これほどの石組が出来る人は数少ない。拝観者が多く喧噪とした感があるが、拝観者の途切れた合間にじっくりと見ながら耳を澄ませてみると、あたかも大きな滝の水音が聞こえてきそうな、そんな気にさせる枯滝石組である。

常栄寺常栄寺(室町時代)

山口県山口市。臨済宗東福寺派。伝雪舟作庭庭園。常栄寺北部の池庭にある滝石組で、池庭東北部三畔に組まれた竜門式の滝石組。下部には鯉魚石が配されている。

保国寺保国寺(室町時代)

愛媛県西条市。臨済宗東福寺派。室町時代に作庭された池泉庭園で、南西に築山を作り、この場所に枯滝石組として組まれている。立石を主体としながら水が落ちる表現に横石を使うなど、技術、意匠的にも傑出したものがある。




桃山時代の滝石組



本法寺本法寺(桃山時代)

京都市上京区。日蓮宗叡昌山。桃山時代初期の作庭。庭園の奥部に築山を設け、そこに枯滝石組が組み、そのもう一段下にも枯滝が組まれている。それまでの滝石組とは全く異なった手法で、水落石を立てずに傾斜させるなど、非常に作者の力量、センスが伺いしれる手法で組み上げられている。

西本願寺大書院(虎渓の庭)西本願寺大書院(桃山時代)

京都市下京区堀川七条上ル。本派本願寺(西本願寺)。この時代に小堀遠州と関わりの深かった作庭者、賢庭の作と推測されている。鶴亀両島、蓬莱山、枯滝など、この時代の特徴でもある豪華絢爛な庭園である。枯滝石組は、東部のある大きな築山の北東部に枯滝三尊石組として組まれている。何れも賢庭の特徴が大変良く出ており、また切石の大きな橋石が架かっているのもこの時代からの特徴である。

勧持院勧持院(桃山時代)

京都市下京区。日蓮宗。本庭は、室町期以降に流行した玉澗流式の庭園意匠が見られる。これは中国宋代の画僧玉澗の水墨山水画からヒントを得て作庭された様式のことで、誰がいつ頃からということはハッキリとはしない。桃山期では、名古屋城二の丸庭園、粉河寺、千秋閣などが本庭と同様の作庭手法となっている。特徴としては、枯滝を築山の上から設け、その枯滝上部に石橋を架ける様式で、築山が二つの峰を設けることとなり、非常に高い位置から渓流が流れる様式となっている。本庭は東部に枯滝を設け、築山上に背景の石を三尊で組み、その下に石橋を架け、滝は二段落ちとなっている。本庭は約160個余りという、多数の石を使って組まれており、その何れも技術的に傑出された石組であることから、是非とも一覧していただきたい庭園の一つである。




江戸初期の滝石組



大徳寺本坊大徳寺本坊(江戸初期)

京都市北区紫野。臨済宗大徳寺派本山。この庭園は寺伝で、南庭は天祐和尚、東庭は遠州作ということになっているが、作風などから見てみると、今ひとつ遠州の香りが漂ってこない。つまり東庭の遠州作というのは遠州自らのというのではなく、遠州系の人が作庭したのではないかと考えられるが、はっきりとしたことは判っていない。枯滝石組のあるのは、南庭の部分で、東部に巨石を二個立てて枯滝石組とし、その全部には水分石がある。立石背後の刈り込みは深山幽谷の山を表現したものであるが、この辺の造りは、大徳寺塔頭寺院である大仙院庭園と似ている。これが枯滝石組だといわれなければ、そのまま見過ごしてしまうような表現方法であるが、禅宗寺院の庭園らしく、一切の無駄を配したシンプルな表現方法であるところに、禅の境地を見いだす思いである。

根来寺根来寺(江戸初期)

和歌山県那賀郡岩出町西坂本。新義真言宗大本山根来山。本庭は鑑賞式池泉庭園で、鶴島(荒廃)と亀島の二島と岩島を配し、自然石の橋二枚一橋と一枚一橋とを架け、両島の間にも夜泊石風の岩島も配されている。滝石組は本庭園の北西部の高い位置に設けられている。三段式の滝石組で、豪健な石組である。

妙厳寺妙厳寺(江戸初期)

愛知県豊川市。曹洞宗円福山妙厳寺。池泉鑑賞式の庭園であるが、本庭の滝石組は、枯滝石組である。本庭西部に巨大な築山を設け、その築山の向かって左側の谷に、豪健な手法で組まれている。

霊鑑寺霊鑑寺(江戸初期)

京都市左京区鹿ヶ谷。臨済宗南禅寺派円成山霊鑑寺。本庭の滝石組は書院の南庭にあたる池庭部分にある。この滝石組は、本庭のなかでは特に傑出したもので、蓬莱式の立石と共に、本庭のなかで豪健な手法を見せると同時に見所でもある。




江戸中末期の滝石組



浄信寺浄信寺(江戸中期)

滋賀県伊香郡。時宗長祈山浄信寺。本庭は本寺書院の北庭で、背後に築山を設け下部の中央に大きく出島のある池庭が広がっている。山畔右手の部分に枯滝石組として滝石組が組まれており、二段落ちの手法でこの時代にしては豪華に組まれている。

春光院春光院(江戸末期)

京都市右京区花園妙心寺町。臨済宗妙心寺塔頭春光院。この庭園の滝石組は、枯滝石組で、蓬莱石と枯滝石組の兼用という手法が取られている。この地は、もともと堀尾氏が天正時代にすでに庭園を造っていたものを後にその石を使用して作り直した関係から、江戸末期という作庭年代を考えると、非常に豪華な石組となっている。


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