地割とは、庭の根本設計とでもいうべきもので、庭の設計にしたがって、池の形や島の配置方法、築山の設け方、主要石の配置、橋の架け方など庭全体の計画を指すもので、この地割によってもおおよその時代鑑定が出来るのであるが、これも池泉庭園の地割と枯山水の地割で、各時代の特徴があり各々の説明をしていくことにする。
・上古・平安時代 | ・鎌倉時代 | ・室町時代 | ・桃山時代 | ・江戸初期 | ・江戸中末期 |
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・室町時代 | ・桃山時代 | ・江戸初期 | ・江戸中末期 |
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この庭園は池庭の源流ともいうべきものであって、昭和18年重森三玲によって実測調査が行われた。それまでは遺跡であるということも知られずに放置されていた。その後幾度となく保存の働きかけを行ったのにも関わらず、昭和41年初頭から大和郡山市の水源地として決定し、この池を崩してしまったことは残念でならない。それほどまでにこの御池は誰がみても遺跡であることがはっきりとしなかったのであり、古代遺跡の保存に力を入れている、大和郡山市でさえ見落としてしまったのではないだろうか。この地割は中国にあったものとも形態がにており、なおかつ中島が蜻蛉が交尾しているような形状で、非常に興味深い地割である。
この寺の草創は「吾妻鏡」によると、藤原の基衡が建立したものと伝えられており、基衡の建立とすれば、保安二年(1121)から保延七年(1141)までの間である。庭園は伽藍完成後に着工し、二、三年後には完成したものと考えられているが、作者は不明である。庭園はいわゆる寝殿作りで広大な池泉を中心としており、池泉の形は、東西に長く展開し、中島が二島と、池泉の東南岸に一カ所、南側に三カ所の出島が作られている。作庭当初には大きい中島(蓬莱島)があり、そこに反橋を架け南側の南大門につないでいた。このような発想は寝殿作りの庭園意匠である。蓬莱島から東南部に位置している小さい方の中島は亀島である。平安時代の池泉の水深は平均90cmくらいで、現在は1.5mぐらいあるので水没している石もこの島には多くある。出島北端の水際近くの1.8mの石は蓬莱石で、池泉の南西部にある築山が蓬莱山であることを示している。
兵火や荒廃などによって池庭の石組や護岸などが崩れているが、阿字池という池や中島の地割がよく残されている。この平等院の鳳凰堂を前にすると、この建物の前に池が広がっているように見えるが、実をこの鳳凰堂の立っているところが中島であり、この建物を取り囲むようにして池が周囲にある。このような地割は平安期の浄土式庭園の姿である。またここに残されている古図から、以前は地中に島があったことが伺える。1991年に行われた中島の発掘調査では、かなり古い時代の州浜や現在の燈籠の根石と見られるようなものが発掘されていることから、明治期に行われたであろう、現状の俗悪な護岸などの改修工事が望まれる。
平安時代、この地は宇治郡とされており、この一体の土豪たる宮地弥益(みやじいやます)の館のあったところが、現在地である。それらのことは「勧修寺旧記」に書かれていることからわかる。この宮地弥益の邸宅に付随していた庭園のことはわからないが、様々な文献等を考察していくと、この勧修寺が出来る前からすでに庭園らしきものがあったと考えられるし、すでに鎌倉期において「藤原光経集」に勧修寺庭園のことが記載されている。そしてこの庭園が多島式の蓬莱舟遊式であるところから、平安時代にすでに作庭されていたと推測できるのである。しかしながらその成立年代と作者に関しては不明である。多島式の形式であるということは、南部と西部にある大きな出島が、もともと中島であったと考えられることから、この池泉には全部で五つの島が配置されていたこととなり、舟遊の形式に最も適合した形態となるからである。北部の池畔は近年の改造により変化してしまったが、北端の中島が建築と平行になるように配置されているということは、毛越寺や大沢の池と同じ発想であることがわかる。