橋石組






橋石組の構成



現存している石橋の中で最も古い例として、天龍寺の橋石組がある。滝石組の前に架かっているものそうであるが、橋石組の形態は、主として三橋式のものが多く、二橋は直線的に架けるが、残りの一橋は矩形に折られて架けられている。しかしながらその折り方が、時代が新しくなるにつれて、次第にその折れ方が強くなっていくことから、様式上の大凡の時代鑑定できる手段として憶えておくと良いであろう。橋石の厚みなどは、室町期から桃山期のものは薄い石が用いられることが多かったが、後に厚みのある石が好まれるようになる。特に天正から慶長期にかけては厚いものを使った例が多い。また切石の橋石は江戸初期以降のもので、やや反ったものとして拵えられ、西本願寺の対面所のものや徳島城の千秋閣庭園のものは代表的である。それ以後の切石橋は急速に弱々しい意匠となっていく。また橋石組の意匠に含まれるものとして、両端の袂に石が据えられているが、これを「橋挟みの石」とか「橋添え石」などと呼ぶ。これも室町時代頃には低い石が一石か二石であったものが、桃山期になると、それよりもやや高い立石が三石用いられるようになる。特に江戸初期においてはそのうちの一石は非常に高い立石として据えられる例が多い。更に橋石組の意匠の中で異彩を放つものとしては、玉澗流の橋石がある。これは非常に高い位置に架けられ、用としての橋石というより景として用いられている。




・鎌倉時代 ・室町時代・桃山時代・江戸初期・江戸中末期

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鎌倉時代の橋石組



天龍寺(鎌倉時代)

京都市右京区嵯峨。臨済宗天龍寺派本山。日本庭園の橋石組の中で現存している最古のものは、京都の天龍寺にあるもので,涸滝前(最初から枯滝として組んだものではなく、昔は実際に水を落としていた。しかし石の組み方が巧みであれば、水を落とさなくても枯滝として充分に鑑賞できるのである。)に三橋架けられているが、片側の一石のみ少し折れて架けられている。景、用の両面において素晴らしい形態を我々に見せてくれているのは、意匠の確かさと、また素材の選び方の確かさの両面に秀でたものがあり、それらがこの様な形で結集されると、何百年経ってもその美しさは衰えるどころか、更なる輝きを放つのである。




室町時代の橋石組



慈照寺慈照寺(室町時代)

京都市左京区銀閣寺町。臨済宗相国寺派。本庭園の石橋は、東宮堂前の池庭の中島に三橋架けられている。また池泉の西側にも中島があり中央の出島とこの中島に対して石橋一橋が架かっている。この慈照寺の庭園も幾たびか改造されており、その中でも三橋の架かっている部分は作庭当初の姿を今に残している部分であり、鎌倉時代に比べるとやや一橋分の折れ方がきつくなっているが、やはり古い時代の優雅な橋石組の姿が良く残されている。

大仙院大仙院(室町時代)

京都市北区紫野。臨済宗大徳寺塔頭。枯滝石組の前に架かっているこの石橋は、非常に低く架けられており、橋添え石共々室町期の石橋の特長を良く表している。またこの滝前に架けるという手法は天龍寺などに代表される手法と同様なものである。意匠面、技術面、材料選択眼など、どれをとっても超一級品であり、何度見ても驚嘆させられるものがある。

退蔵院退蔵院(室町時代)

京都市右京区花園。臨済宗大本山妙心寺塔頭。本庭園には三つの石橋が架かっているが、亀島から北部に向かって架かっている橋、本庭北西部の枯滝石組前の橋石となるものであるが、この橋は御影の切石敷きの橋で、江戸期になって新たに追加された後補のものである。それ以外の橋は青石の自然石であり、その何れもその当時に愛好された材料を使って架けられており、手法上と共にその当時の面影を良く伝えてくれている。




桃山時代の橋石組



三宝院醍醐寺三宝院(桃山時代)

京都市伏見区醍醐。真言宗醍醐寺派本山。約1600坪ほどの規模をもつ本庭園は、一見廻遊式庭園に見えるが実は書院からの池泉鑑賞式であり、また文献等には舟を入れたことを記す記述もあることから、舟遊式としても捉えることが出来る。鶴亀両島を配した構成で、それらを中心とする三つの橋の地割などは、この桃山期を良く表す特色が出ており、徳島の千秋閣庭園や、京都西本願寺庭園と共に配置構成がよく似ている。島に向かって右側の二橋はやや直線的に架けられており、残りの一橋(土橋)は極度に折れた配置となっている。この様な配置は桃山期に入ってからであり、作庭年代を識別する意味においては好例といえよう。何しろ広大な敷地に様々な要素が組み込まれており、見るべきものが非常に多く、是非とも一覧することをお薦めする。但し本庭園は一般公開されているが写真撮影は禁止となっている。そのために自分の目で見たものを資料として残すわけにはいかないので、庭園見学される前に良く資料などを集めて実地見聞することをお薦めする。

旧千秋閣旧千秋閣(桃山時代)

徳島市城内一番地。管理者:徳島市。本庭は、枯山水と池泉庭園からなっている。室町期にはすでに両者が混在する庭園はあったが、そのころは枯山水の方はもっとあっさりとしたもので、本庭園のような桃山期の両者混在の庭園とは異なっていた。翻って本庭の枯山水部分は、豪華な石組がなされており、また池泉庭園と比較しても引けをとらないし、また枯山水から池泉庭園への繋がり、またその逆共に全く違和感のないもので、この辺の巧みな意匠は素晴らしいものがあると同時に、桃山期の庭園手法を良く表している。左図の橋石組は、枯山水部分の南部の鶴島から中央の亀島に架かる橋で、自然石の石橋で、長さは約10.5メートルにも及ぶ豪快な橋石である。一石を7:3の割合に割って使用している。もう一橋は亀島から北部に切石の橋で、大面取りされたもので長さは約6メートルのもの、そこの橋を渡ってさらに少し行くと薄い切石の橋が北東部に向かって架けられている。この橋の長さは約3メートルである。この様に鶴亀島に橋を架け、しかも切石を使用し、三橋の構成も若干の折れ方を見せるなど、典型的な桃山期の橋石組意匠といえるであろう。

勧持院勧持院(桃山時代)

京都市下京区猪熊通五条下ル。日蓮宗本国寺山内。この庭園の石橋は、東南角にある二段の枯滝石組上部にある玉澗流の石橋と、南部にある枯滝石組の前の入り江になったところに架かる二橋がある。どちらも自然石で、室町期の影響を色濃く残しながらも、本庭の場合派手さはないものの、桃山期の華やかな雰囲気を残した石橋である。




江戸初期の橋石組



曼殊院曼殊院(江戸初期)

京都市左京区一乗寺。天台宗竹内門跡。曼殊院庭園の地割を一覧してみると、鍵型の地形に書院の南部から東部に意匠されており、この次代の特徴である、前部を広くあけるように設計されている。この様な作り方は池泉庭園の意匠と同じであり、この時代においては、枯山水庭園も次第に具象化しつつある時期であったといえるであろう。さて本庭園の橋石組であるが、左図のように二橋の型式となっている。左右共に自然石の橋で、向かって左側の橋を渡りきったところが亀島であり、さらにその右側の橋が鶴島に至る橋石である。この橋石組の中でも際立っているのが左側の橋石組で、紀州の青石を用い、厚みが九寸(約27cm)、長さは七尺二寸六分(218cm)地上三尺一寸(93cm)高になっている。またこの橋の添石(橋添石組)が大変素晴らしく豪華で、この橋石奥(南側)の右手の橋添石は、高さ七尺(210cm)の立石手法で、その左側(北部)のものが、三尺三寸(99cm)のやはり立石で、大きな橋石をさらに際立って豪華に見せている。江戸初期の橋添石は、本庭のように四石のうち、二石だけで意匠するが、まさに典型的な例といえよう。さてもう一方の石橋も自然石で、厚さ八寸五分(25.5cm)長さ九尺九寸(297cm)地上一尺七寸(51cm)高という構成で、橋添石は、右奥に二尺一寸(63cm)、左側手前は三尺二寸(96cm)のもので、やはり共に大きなものを使用し、またこの石が護岸石組も兼ねたものとなっている。曼殊院はいつでも拝観できるが、この橋石組は小書院からだいぶ奥まったところに架けられている関係上、肉眼で観察するには少し離れすぎているので、是非とも小型携帯用の双眼鏡などを持参してみると、より一層理解することが出来るので、忘れずに持参することをお薦めする次第である。

蓮華寺蓮華寺(江戸初期)

滋賀県大津市坂本町。天台宗延暦寺別格寺院。

孤蓬庵大徳寺孤蓬庵(江戸初期)

京都市北区紫野。臨済宗大徳寺塔頭。




江戸中末期の橋石組



西明寺西明寺(江戸中期)

滋賀県犬上郡甲良町。天台宗竜王山。

大隆寺大隆寺(江戸末期)

愛媛県宇和島市。臨済宗妙心寺派金剛山。

満願寺満願寺(江戸末期)

兵庫県川西市多田。真言宗高野山派神秀山。




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