1.石組の源流
これまでのところ、環状列石は墳墓の跡ではないかという説が非常に有力になっているが、本来ならば庭園の石組として考えること自体が邪道であるが、その形態などを見ていくと、縄文時代の人々の心に、既に亡くなった人たちを葬る際に、その墓標として石を使うということが、その死者に対しての尊敬や敬いであり、またその時代においてもっとも堅い物質であることから、未来永劫にわたって永遠にその形態が変化しないということが最大の理由であったと思われる。
その意匠形態は、秋田県の大湯環状列石を例に取ってみると、1mから2mぐらいまでの遺構が環状に点在しており、その一つの例として写真のような形態がある。石には一切の加工は施されておらず、見ようによっては日時計のようにも見えるし、また意匠的に見ても素朴ながら、しかしこの時代においてのデザインとして考えてみると、石の配置や並べ方、立石の据え方などに、非凡なものがある。
磐座・磐境も庭園の形態ではない。この時代には大きな神池を作り、その中に多くの中島を設けて、神々を奉った形式の物があるが、磐座は石を主体にした物で、石そのものを神格化して崇拝したものである。磐境は石を円形に並べて神聖な地を作り、そこに神々を奉った物で、陰陽思想が含まれている。
磐座においては、そもそも磐座の鎮座しているのが山上であり、山全体を神域とし、その山を神山としていたわけであるから、一種の山岳信仰と似通ったものがある。それは我が国においては山中の動物や木々などの主である山の神がいると信じられていたわけであるし、仏教の世界においてはヒマラヤをモデルとした須弥山や、道教には蓬莱山の思想がある。
このように古来、山というものに対して、人間はその山自体を神秘的な領域とし、その中において突如として現れた崇高なまでのその巨石に対して崇拝することは、当然のことであろう。
磐座の構成は、自然のままの巨石に対して一切の加工をすることなく、そこにあった巨石を神々として見立てた物や、山上にあった大きな石を据えることによって磐座とした物、そして人工的に据えられた物などがある。まさに自然の素材をそのまま御神体として見立てた物で、この上代において、すでに石に対して思想的な物が入り込んできていることが、実に興味深いものがある。その石の構成も後の三尊石組の原型となるようなものもあり、まさに日本庭園における石組の始まりであるともいえる。
磐境は、この大体において磐座とともに存在しており、やはり自然のままの巨石を利用し、時には人工的に手を加えたものもある。その配置は先にも書いたように円形・楕円形・平行線状に多数の石を配置しており、神を奉斎した神聖なる地として造営されている。
そしてこれらの初期の磐境が、時代が進むにしたがって、全石を人工的に配石して、神域としての地を造営するようになり、平安期の磐境としてみられるものでは滋賀県大津市にある園城寺山内の新羅善神堂社殿前のものがある。また同じく大津氏堅田町にある小椋神社のものは、一種の玉垣のような構成となっており、初期の頃の磐境と比較しても人間の手の入った意匠となっている。ここは32基の玉垣式の磐境となっており、1基には正安二年(1300)三月七日の銘文も見られることから、鎌倉末期のものであり、時代から考えると、上代の頃の磐境と違って人工的な配置をしたり、一種の石造品のごとく加工を施したことも充分考えられる。ただし当然のことながら現在彫刻家がなすようなものとは違って、全体的に先のとがった将棋の駒のようなかたちで、それが整然と配置してあり、現存している鎌倉時代の庭園の石組とも違う磐境としての形態であり、ここに磐座から続いてきている磐境の伝統のようなものを感じ取ることが出来る。
このように、環状列石・磐座・磐境と通して、上代の人々が、石という物質に対して尊厳や敬いを持って接していたことは明らかであり、それを神格化したりすることからこれらの意匠形態によって表現され、そして次なる段階へと進んでいったわけである。
2.池泉庭園の源流
池泉庭園としての形態としては浄土式庭園やその後の意匠としての池泉回遊式や舟遊式庭園があるが、これのもとからの意匠として考えられる庭園として、神池神島の構成が源流として考えられる。そうすると先に述べてきた環状列石や磐座、磐境が石組の源流として考えられるのと同時に、庭園の中に入れることは適切ではないが、神池神島も池泉庭園の思想的な源流として捉えるべきであり、後世の池泉庭園意匠に多少なりとも影響力を与えたことを、認識する必要があるであろう。
神池神島も磐座などと同じように崇拝や信仰から生まれた意匠であるが、現存しているものの大半が荒廃、もしくは後世に庭園的な改造---護岸石組など---がなされており、出来上がった当初の状態を想像していく以外ないが、池を海と見立て、そして中島を設けるという手法はほぼ同じであり、これが後世の池泉庭園の海洋表現と、共通の概念として捉えることが出来る。ただし決定的な違いとしては、後世の池泉は、あくまでも思想的なことを背景にしたり、自然景観の縮景としたり、いわゆる鑑賞や景観本位とした意匠であるが、神池神島に関してはそのようなものが一切なかったのではないかと思われる。ちょうど磐座や、磐境などの石組がそうであったように、その神池のあるところが神々の領域であったわけであるから、鑑賞本意の庭園とは成り立ちが違うのである。
現在までのところ残っている神池神島の構成としては、直線上のものや、四島式のもの、多島式のものなど様々な様式が見られる、それぞれに、その地方で発生した宗教的なものを背景とした構成になっている。また池を海と見立てたことに対しては、上代における中国大陸や、朝鮮半島から渡来した文化に対して、神々も海を渡ってきた、ということからこのような発想になったのではないかと思われるが、何分にもまだまだ不明な点が多く、確実性には乏しいのである。
いずれにしても庭園としてみるべきものではないが、神々を奉斎するための神域として、海を背景としたり、その海に浮かぶ島などを形作ったり、またその島に磐境を構成したりなど、現在の池泉庭園意匠の根幹である、自然風景の抽象化や、縮景性などの意匠形態に、大きな影響を与えた構成のため、神池神島が池泉庭園の源流になったと考えたい。
3.池泉・枯山水庭園の意
先の章で、日本庭園の美しさを語る上に置いて欠かすことの出来ない、石組や池泉庭園の原初形態について述べてきたわけであるが、この章においては現在の庭園意匠に必ず取り入れられる池泉庭園と枯山水について考えてみたい。
上代の庭園の源流から、今日の意匠形態に見られるような発展は、飛鳥奈良期に正式に渡来した仏教思想や、それ以前からの蓬莱思想などを取り入れた意匠が根本となって発展してきた。そしてそれらの思想を背景とした池泉庭園や、枯山水式の庭園が生まれたのである。
池泉庭園は、日本庭園の意匠形態の中心であった。室町期以前の庭園は大部分が池泉庭園であったといってもいいであろう。意匠的には神池神島のごとき中島を作ったのであるが、それに橋を架けたり、遣水や流れによって水を入れ、池庭の背後には築山を作り、ここに滝を作ったりと、それまでの神々を奉斎していた神域としての池泉とは違う、鑑賞したり周遊したりすることを目的とした庭園がつくられるようになったのである。
この池泉庭園には、平安期から鎌倉期初期にかけて、池に船を浮かべてそこから鑑賞する舟遊式の庭園や、鎌倉期以後室町期にかけての、池泉のまわりを歩きながら鑑賞することを目的とした、池泉廻遊式や、それ以後の書院からの鑑賞を目的とした鑑賞式などがある。
舟遊式の庭園については「栄花物語」に、
かの鳥羽院におはしませ給、十余町をこめてつくらせ給、十丁ばかりは池にて、
はるばるとよもの海のけしきにて御船うかべなどしたるいとめでたし
とか、また「源氏物語」には、
ひんがしのつりどのに、こなたのわかき人々をあつめさせ給ふ、竜頭鷁首を、か
らのよそほひに、ことごとくしうしつらひて、かぢとりさをさす、わらはべみな
みづらゆひて、もろこしだゝせて、さるおほきなる池の中に、さし出たれば、ま
ことのしらぬ国にきたらん心ちして、哀れにおもしろく、みならはぬ女房などは
思ふ、中島のいりえのいわかげに、をしよせてみれば、はかなきいしのたゝずま
ひも、たゞゑにかひたらんやうなり。
などと、池に舟を浮かべて、遊びを催したりしていたのである。そしてこのようなことが中心の庭園意匠であるために、広大な面積で、その中で移りゆく景を楽しんだり、要所の石組をポイントとしたりして、室町期に見られるような石組によってみせるという庭園ではなく、全体的になだらかで優美な曲線が主体の庭園意匠であった。奥州平泉の毛越寺は、保存状態もよく、州浜があったり、中島の石組や護岸等も残されており、作庭記流の庭であることが伺える。ただしこの時代の庭園は完全な形で残っているものがなく、地割だけが残っていたり、発掘によっての庭園など、まだまだこれからの研究によって今までの常識とされてきたことが覆されるようなことがでてきてもおかしくない。現に昭和62年に、明日香島庄遺跡から流れや、滝、石組、池などの遺構が出土したりしているので、まだまだこれからの発掘調査が楽しみである。
廻遊式庭園については、鎌倉期以後から本格化し、武家好みの池庭で、池を廻遊することを本意としたものである。とはいっても廻遊だけとしての庭園ではなく、やはり舟遊式とを兼ね備えたものが多く、平安期の頃に比べれば、池の規模は全体的に小規模となったが、それでもまだ舟遊するに十分な大きさを持っていた。代表的なところでは、西芳寺、天龍寺、金閣寺などが、いずれも廻遊と舟遊とを兼ね備えた池泉庭園である。またもう一つの特色として、このころから池泉庭園は、石組も非常に重要な位置を占めるようになってきており、先にあげた庭園の中に豪快な枯滝石組や、夜泊石、鶴島亀島の石組など、いわゆる蓬莱思想を取り入れた石組や須弥山の石組など、次なる新たな意匠形態である枯山水庭園の出現に、重要な役割を果たす石組が出現してきたことに着目しなければならない。
室町期以降になると武家書院の発達とともに、書院からの鑑賞も考慮に入れた鑑賞式の池泉意匠となるのだが、むろん舟遊や廻遊も同時に取り入れられている。特に江戸初期以降となると各様式を兼ねた大池泉庭園がでてくるのである。
さて枯山水庭園であるが、飛鳥、奈良、平安期における大海を象徴とするような池泉や、川のせせらぎを表現したかのような曲水の庭、鎌倉時代における、それらから発展した池泉庭園などが意匠形態の中心であったわけであるが、むろんそれらの時代にも枯山水的なものが全くなかったわけではない。たとえば西芳寺における上部亀島の石組や、枯滝石組などがそうであり、一般的に池泉庭園としての構成美に目を奪われがちであるが、すでに室町期に向けての枯山水としての初期の頃の形態が見られる。そして室町期に池泉庭園に対する意匠の発展はあったわけであるが、この時期に大いに枯山水が発達し、京都の龍安寺や慈照寺銀沙灘、大徳寺の大仙院庭園のような、水を使わずにして大海や、流れを表現し、石組によって様々な思想を表現した、芸術的要素の高い日本庭園の美的構成が完成したのである。
枯山水のことについては「作庭記」に、
一池もなくやり水もなき所に石を立つることあり。これを枯山水となずく。その枯
山水の様は。片山のきしあるいは野筋などつくりいでゝ。それに取付て石をたつ
るなり。又ひとへに山里などのやうに面白せんとおもはゞ。たかき山を屋ちか
まうけて。その山のいたゞきよりすそざまへ石せうせうたてくだして。この家を
つくらむと山のかたそわをくづし。地をひきけるあいだ。おのづからほりあらは
されたりける。石のそこふかきとこなめにてほりのくべくもなくて。そのうゑも
しは石のかたかどなんどにつかばしらをも切かけたるていにすべき也。云々
と、すでに作庭記の中に枯山水としての心構えが書かれているわけである。
特に枯山水の中でも龍安寺庭園の意匠は、まさに山水ではない形態であるが、このスタイルは伝統として続かなかった。その理由としては、この庭園の位置する方丈前庭というものは、本来儀式のための空間であったために一木一草のない場所であったのが、室町期に入って、儀式が室内で執り行われるようになってからは遊休の空間であった。それが明応末年(1501)頃から唐物名物などの飾りつけが全盛を極め、この遊休空間に飾りつけの様式を持って、石組構成をしたのがこの龍安寺庭園であり、方丈前庭としてのはじまりでもあった。そのようなことから一木一草を取り入れることがまだ出来ずにこのような形態となったと考えられる。そしてそれまでの山水を主体とした庭園と比較して、意匠形態としても先進的すぎたのが原因であろう。しかし庭園意匠としては特異なものであるが、全く無駄のない虚飾を廃した構成に対して、日本人の非常に洗練された感性が、よく現れている庭園である。
このように日本庭園の美的感覚が、この枯山水によって一挙に開花し、日本人の研ぎ澄まされた感覚がもっともよく表現されている形態であることに異論はない。
4.これからの日本庭園
さて来世紀に向けての日本庭園の展望であるが、現状の日本庭園の意匠形態は、江戸中期から始まって明治期に確立された自然風景主義の庭園、及びその流れに沿った具象的な枯山水、そして茶の露地を模した壺庭、書院庭園など様々な意匠形態があるが、現代の庭園意匠の根幹をなすものとして、明治期にほぼ確立された自然主義庭園であり、その流れに沿って自分のスタイルを確立した小川治兵衛(植治)の意匠形態が、今日に至るまで、創作において非常に大きな影響力をもたらしていることは、現在の日本庭園に関わる人々にとって頷けるものであろう。
植治のスタイルは、たとえば京都東山における数々の別荘庭園に見られるような、茶の露地のような形態を取り入れながらも、山間の自然風景的な描写を積極的に取り入れ、そのために東山の疎水を利用して水を使い、そしてそれに違和感のないように捨石や存在感を誇示しないかのごとくの石組が特徴である。これはあくまでも植治の意匠形態であり、少々日本庭園に精通したものであれば、植治の作品であるというのがすぐ解るぐらい植治独自の世界を築き上げている。この時代は、ちょうど茶の露地が熟成したのと同時に、明治期に入って西洋の文化が流入してきたことに対して、今までの創作スタイルや技術などの、これまでの日本庭園が歩んできた伝統の保持に躍起になっていた頃でもある。そんな中での植治の明快でありながらも、独自の作風意匠が受けたのは、時代の背景を考えれば納得することが出来る。そんな植治の意匠も、先代の人々が残してきた庭園と比べると、地割や、石組形態など、芸術的な観点から作品を突き詰めていくと、やはり力強さには欠けるのは否めない。これはあくまでも自然風景を写実的に捉えすぎているのが要因である。親しみやすいが、それ以上の訴える力には乏しいのである。
さて植治は独自の世界を創作したが、他の作庭家たちはその混沌とした明治期の中で、それまでの日本庭園の職人としての技術的なことだけを伝承していくために、創造という言葉を忘れてしまったかのごとく、技術の伝承のみに没頭していくのである。これは先にも述べたように、明治期に入ってからの西洋文化の流入に対しての反発と伝統固持であり、特にこの伝統を死守しなければならなかったことが、その後の日本庭園の正常な進化に多大なる悪影響をおよぼすのである。歴史に「もし」という言葉を当てはめてはいけないが、あえてもしその時点で鎌倉期や室町期の構成美を再確認し、そしてそれらの時代より発達していた技術力を持ってすれば、その時代における非常に魅力的な作品が出来上がっていた可能性があるだけに、伝統という言葉の中に創造という言葉が埋もれてしまったことが残念でならない。そして作庭家たちが早くこのことに気がついて新たな方向に向かって突き進んでいけばよかったのが、現代においてまで、今だにそのことに対しての重要性がさほど感じられていないことが問題なのである。
さてこのような創造の流れが完全な主流であった昭和という時代に、植治の意匠は一つのスタイルとして尊重しつつも、ただ漠然とそれらの意匠形態を誇示している現状を批判し、再度、古庭園を具に実測調査をして、それらを基に各時代の地割、石組形態を確立した上で、昭和という新しい時代の日本庭園を創造しようと試みた人として重森三玲という存在を忘れてはならない。明治以降の伏石や平天石中心としたおとなしい石組や捨石などの意匠形態中心のものや、植裁中心とした作風を憂い、重森三玲がこれまでの意匠を打破するような立石を主体とした、それでいて「作庭記」の地割や石組に沿った伝統的な手法を尊重しつつ、昭和という新しい時代の感覚を取り込んだ、明らかにいままでの手法とは違う意匠の庭がでてきたのである。
重森三玲の出現は、、半ば固定化されていた日本庭園の意匠面における現状の打破と、豊富な実測調査に基づく各時代ごとの石組の形態や地割の観点から、過去の遺産の造形的なすばらしさの再確認とともに、新しい時代の感覚を常に取り入れて進化していかなければならない姿勢の重要性を示唆していることで、(このことについての賛否両論はあるが)、明治以降の長い期間の間に、本来ではあってはならない創造に対しての固定化という問題点に対してに、一石を投じた姿勢は賞賛するべき行動であったといえるであろう。
鎌倉期や室町期の作品は、その時代においても現在の時点でも、超一流のモダンアートのごとく、非常に先進的且つ抽象的であるが、そのような抽象的な創造に対しても自然描写が根本であり、自然風景を全く無視しているのではない。むしろ自然に対しての畏れや、畏敬の念は現代の我々よりも大きかったのであろう。それだからこそこれらの時代につくられた現存している作品は、あくまでも自然風景を範としているような創作であっても、決して自然を単に模倣することなく、独自の世界を与えられたスペースで築き上げてきたのである。そして日本庭園を語る上において、これらの300〜400年も前につくられた庭園がいまだに一つも色褪せるどころか、更なる疑問を投げかけてくることに対して、先の時代の作庭家たちの先進性や創造力のたくましさに敬意を表すると同時に、現代におけるいまだに模倣や創造性のない作品を作り出す作庭家達の不甲斐なさを反省しなければならないのである。
いまだに現在の主流をなしている自然風景の模写的な庭園に対して好感が持たれるのは様々な要因がある。それは文明の発達と共に産業が発展し、その代償として、都市開発という名目においての節操のない自然破壊、それは人が暮らしやすいように川を曲げ、山を崩したりと、まさに人工的な都市づくりを推進したことによるものである。そして便利な暮らしや生活を求めて人々は都市部へ集中し、その結果、日々の生活から潤いのない、無味乾燥な人間社会が出来上がってしまったのである。自然的なものに対してあこがれを持つのは、これらのことに対しての回帰であるといえるであろう。
しかしそれだからといって、自然風景をありのまま模写したような庭園がつくられ、それが又なんの抵抗もなしに受け入れられることが問題である。
そのような庭を利用する人々には昔懐かしい郷里の自然のようだと思うかもしれない。そのような気持ちを思い起こさせるという意味においては、これらの庭園も一つの役割を果たしたといえるであろう。しかしこれらの同じような形態の庭園ばかりでは、何時しかはこのような思いもなくなり、日本庭園とはこういうものであるという変な固定感が出来上がってしまい、結局のところは人間の創造したものなどは、どれも同じであるという烙印を押されてしまう。これらの庭園の主役は名木であり、名石でありといったような、創造という意匠形態によって見せるのではなく、石や樹木の陳列場のような様相を呈してしまうのである。芸術や美術的な観点からいえば、次代にの人たちに対して誇れるようなものは何もない。
このような観点を改めて、尚かつ今まで述べてきた各時代ごとの庭園の形態や、その時代の背景などを踏まえた上で、この混沌とした現代を見据えて創造ということに対して接していけば、必ずその時代における、その時代にしか表現できない、庭園が持つべき主題を表現できることは間違いない。
確かに庭園という物はそれを見る人々に対して安らぎを与える場であるわけであるが、それと同時に様々な問題定義をする場であってもいいわけであり、またそのような庭園の存在が少数ではあっても存在するべきなのである。かといって絶えず攻撃的な庭園であれば、調和ということが成り立たなくなってしまうから、その辺の問題は作庭者の力量を問われるところである。そしてそのような庭園は現在においてつくられることが、最も時代的に適合しているのではないだろうか。
このような庭園が創られれば、それは庭園の世界だけではなく、それを取り巻く様々な分野に対しても、多種多様な問題を投げかけることになるわけであるから、庭園としての存在感を、世間一般に対して再度問いただす役目も果たしてくれるのである。
何も庭園は決して建物の単なる付属品や憩いの場だけではなく、時にはその庭が建物に対して、一瞬でも攻撃的な討論の場となり得てもいいはずである。これは、その建物の内部空間にあった絵を飾ったり、時には問題作を展示したりするのと同じように、いつも建物と絶えず会話をしているような、それが時には媚びたような態度であり、時には攻撃的であり、そしてまた時には優しかったりというような、見る角度や光の加減などによって、様々に時々刻々変化するような作品が、これからの新しい日本庭園の創造において必要なことなのである。しかしながらこのようなことを喚起するがためだけに、オブジェを設置してみたりするような行為も、作庭家として考えるならば、それは創造という世界を放棄したと言っても過言ではないであろう。あくまでも作庭家は作庭家であって、彫刻家ではないのである。長い年月にわたって日本庭園の石組は、殆どが自然のままの状態のものを使用して組まれ表現されてきている。表面に見える部分の石に細工をしたものを使用して石を組むことは、作庭家としての自負心の放棄であり、そんなものは新たな創造でも何もない。先人の人達のあれほどまでに圧倒的な創造力と構成力を持ってしても、極端な石の細工をしなかったのは、やはり庭に据える石は尊いものであり、それを細工したものによって見せようなどという思い上がった気持ちが出てこなかったことは明白である。あくまでも抽象表現でありながらも、自然に対しての敬いがそこはかとなく感じられるところである。それにも関わらずそのような庭をつくりたければ、作庭家としてではなく、彫刻家と名称を改めるべきであろう。それほど石組というものは、日本庭園の創造にしめる比重は非常に大きく、且つまた神聖なものであって、自然のままの石を使うことが自然に対しての敬いでもあり、また全く逃げ場のない真剣勝負の創造の場となり、そのような時を費やされて創造された庭園に隙がないのは当たり前のことであろう。
これらのことを踏まえた上で、伝統的ないいところは尊重し、創造する上においての背景となる題材は、現代における様々な問題点を表現することによって、従来の蓬莱思想や須弥山などの、現代的においては寺社の庭園以外ではそぐわない題材からも、一歩も二歩も踏み出した表現方法によって、これからの日本庭園の新しい姿を創造することが重要な課題なのである。そしてこれまで述べてきたぐらいの改革の意識があれば、今までにはなかった新しい創造を伴った日本庭園が多数出現してくることであろう。
人はこの地球上に姿を現して以来、自然と共に生活をしてきたわけであるから、自然に対しての脅威や、自然を慈しむ心、愛でる心、保全しようとする動きなどが、この世に生を受けて誕生したときから自然と備わっているものである。だからといって自然をそのまま写し取ったような意匠や、ただ単に縮景しただけのものであれば、そこには人間としての自然に対して敬意を表しながら独創的な世界を築き上げてきた、これまでのものに対しての答えとしては、あまりにも貧弱なものであるといわざるえない。自然はあくまでも自然であり、人間が創り得るものでもなく、ましてや庭園というものはそれらの貴重な素材を使って敬意を表しながら構築していくものであるから、これらの気持ちを持って創造していくことが絶対に必要である。ただ単に技術力だけを誇示したような庭園や、伝統的な意匠の写しだけでは、人々の心に深い感銘を与えることはできないのである。
古来日本人が受け継いできた自然に対しての敬いや敬愛を忘れることなく、しかしそれだけにとどまらずに現代の思想をも取り入れた作庭意匠をすることが、次代に引き継いでいく、現代の作庭家にとって課せられた明断なのである。
[参考文献]
作庭記 | 田村 剛 | 相模書房 |
山水並びに野形図・作庭記 | 上原 敬二 | 加島出版 |
京都・壺庭 | 重森 完途 | 光村推古書院 |
日本庭園史大系 | 重森 三玲・重森 完途 | 社会思想社 |
日本庭園の思惟 | 重森 完途 | 日貿出版 |
日本庭園歴覧辞典 | 重森 三玲 | 東京堂出版 |
重森三玲 茶室茶庭辞典 | 重森 三玲 | 誠文堂新光社 |
仏教辞典 | 中村 元・福永 光司・田村 芳朗・今野 達 編 | 岩波書店 |
造園辞典 | 上原 敬二 編 | 加島書店 |
広辞苑 | 新村 出 編 | 岩波書店 |
大湯町環状列石 | 文化財保護委員会 | 吉川弘文館 |
大湯環状列石発掘史 全編 | 諏訪 富多 編 | 大湯郷土研究会 |
中尊寺 | 平泉遺跡調査会 | 中尊寺 |